与那国で浮上、海自誘致 週のはじめに考える – 中日スポーツ

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 日本の最西端にある沖縄県与那国町。町の誘致により陸上自衛隊沿岸監視隊が配備されて一年が過ぎ、自衛隊配備の影響がさまざまな面で表れています。

 与那国町のある与那国島は台湾との距離が石垣島よりも近い約百十キロメートル。晴れた日には西の海に台湾の島影がそびえます。

 台湾が日本領だった戦前、与那国島は台湾との密貿易で栄えました。戦後、沖縄を占領した米軍が国境管理を厳しくすると交易は途絶え、島は衰退の一途。町が出した復興策は、台湾との交流復活でした。

町が陸上自衛隊誘致

 二〇〇五年と〇六年、台湾との航路開設を盛り込んだ「国境交流特区」を国に申請したものの、規制の壁に阻まれて門前払いされました。次に目をつけたのが自衛隊の誘致です。

 〇八年、島に「防衛協会」が設立され、〇九年には外間守吉町長が上京し、防衛省に「陸上自衛隊」の配備を求める文書を提出しました。町からの誘致は、組織維持と中国への警戒から南西諸島への部隊配備を検討していた陸上自衛隊にとって渡りに船でした。

 防衛省での検討は急速に進み、誘致からわずか六年半後の昨年三月、与那国駐屯地は開設されたのです。ただ、外間町長は「私は中国の脅威とか抑止力については一言も言っていない。常に経済優先」と述べ、誘致は「島おこし」だったことを隠そうとしません。

 自衛隊とその家族約二百四十人が移住したことにより、島の人口は増えて約千七百人となり、住民税も六千万円増えました。隊員が町内会の活動に参加したり、駐屯地のイベントに島民が訪れたりと交流は深まっていますが、歓迎一色ではありません。迷彩服姿の隊員は「観光の島にとってマイナス」と話す島民もいます。

変化した政治状況

 各自治会に若い隊員が入ってきたことで、島民が活動を自衛隊任せにする傾向も出始めています。

 一番大きく変わったのは政治状況かもしれません。町長選挙はほぼ毎回、保守系と革新系の一騎打ちでした。前回は自衛隊配備をめぐる賛否が争点となり、投票率は95・48%と高く、保守系の外間町長がわずか四十七票差で当選しました。

 陸上自衛隊の配備後、初めてとなる町長選は六日に投開票されましたが、保守系二人の争いとなり、革新陣営からの出馬はありませんでした。

 有権者は前回より二百十五人増えています。この多くが自衛隊関係者であり、全有権者数の二割近い。いわゆる「自衛隊票」が政治的なバランスを崩し、従来の保革対立の構図に大きな変化をもたらしたとみられます。

 もうひとつの変化は、「海上自衛隊与那国協力会」が発足したことです。会長の東崎原敏夫氏は、近く海上自衛隊誘致のため防衛省へ出向くことを明言しています。自信をみせるのは、それなりの根拠があるからです。

 〇七年六月のこと。機雷を除去する米海軍の掃海艇二隻が与那国に寄港し、初めて米兵が上陸しました。このときの狙いについて内部告発サイト「ウィキリークス」は在沖縄米総領事館発の「極秘」公電を伝えています。与那国島は「台湾有事の際には掃海活動の拠点となりうる」というのです。

 米掃海艇の寄港をきっかけに海上自衛隊の掃海艇が与那国入港を繰り返すようになり、今年は既に二回、入港して一般公開も行われました。

 五月には自衛隊トップの河野克俊統合幕僚長(海将)がハリス米太平洋軍司令官(海軍大将)を招待し、与那国駐屯地や島内を視察して回りました。

 振り返れば、町が陸上自衛隊を誘致するより前の〇四年、陸上自衛隊は与那国マラソンの支援を開始し、マラソン後には交流会を開いて親睦を深め、ヘリコプターの体験搭乗に島民を誘いました。

 掃海艇寄港や日米高官の与那国訪問は、陸上自衛隊という組織が島民に擦り込まれていった過程とうり二つではありませんか。自衛隊を支援する会が設立され、次に町から誘致すれば、段取りまで一致することになります。

 原発を受け入れて一時的に財政面で潤った自治体が次には増設を求めていく構図と共通するものがあります。

重要なのは島の自治

 南西諸島では宮古島と石垣島へのミサイル部隊の配備計画が進みます。どちらの島にも賛否両論あり、賛成する住民の中には「島おこし」が目的の人もいます。ただ、島民にとって一番重要なのは「島の自治」をどう考えるかにあります。配備がどんな結果をもたらすか、与那国は先行例といえるのではないでしょうか。

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